浪越式指圧における「無証」とは、「証を立てない」ことを単なる治療方法の特徴として捉えるのではなく、治療と身体、施術者と患者のあいだに存在するあらゆる媒介を排除し、直接的に出会うことを意味しています。これは、東洋医学における伝統的な「証」という概念——すなわち、身体の状態をカテゴリー化し、分類し、一定の処方を導き出すための一種の概念的フィルター——をあえて用いず、施術という行為そのものを根源的で直截的な対話として位置づける哲学的な態度です。
禅指圧や経絡鍼灸、中医学などが「証」を明確に立て、それに基づいた治療的介入を行うのに対し、浪越指圧では診断と治療が本質的に一体となっており、「証」という解釈の枠組みを介さず、指そのものを通じて身体と直接対話します。このような姿勢は、施術という行為に対する徹底的な「直接性」と「即時性」を追求するものといえます。
「無証」の倫理——純粋な触覚の信頼
浪越式指圧の哲学的な立場は、診断や評価が「指そのもの」に完全に収斂しているという点にあります。指圧師の指は、単なる感覚器官や施術の道具ではなく、身体との対話を担う倫理的かつ存在論的なコミュニケーションの中核なのです。指が触れるその瞬間に、施術者の主観と患者の身体という、二つの主体性が出会います。そして、指が感じ取る身体の状態そのものが、すなわち治療行為となります。
したがって、浪越式指圧における「無証」は、施術者が自身の触覚に対して絶対的な信頼を寄せるという倫理的な姿勢を要求します。これは、身体が発する非言語的なメッセージを、最も純粋な形で受け取り、その声を妨げるような概念や前提をすべて排除しようとする態度といえるでしょう。
「母ごころ」に込められた浪越式指圧の真髄
浪越徳治郎は、「指圧の心 母ごころ おせば生命の泉わく」という言葉を遺しました。この短い言葉の中には、浪越式指圧が大切にしている本質が、まるで結晶のように凝縮されています。なかでも「母ごころ」という言葉は、単なる施術技術を超えて、人間が人間を癒すという営みの根底にある「根源的なやさしさ」を象徴しています。
「母ごころ」とは、条件も見返りもなく、ただ目の前の存在のために尽くそうとする純粋な気持ちです。赤ん坊が泣けば自然に抱き上げ、体調が悪ければ何も言わずにそばに寄り添い、触れ、撫でる。その行為には「治してやろう」「分析してから処置しよう」といった打算や理屈はありません。ただ相手の痛みや不安を自分のことのように感じ、手を差し出す——それが「母ごころ」です。
浪越式指圧の「無証」は、まさにこの母ごころの態度と一致します。証を立てず、診断と治療を分けないという姿勢は、頭で身体を判断するのではなく、心と指で直接その人の「今」に向き合うということです。「この人はいま、どんな状態だろう」「どこがつらいのだろう」と、その一瞬一瞬の身体の声にそっと耳を傾け、静かに指を当てる。そこにあるのは、専門的な知識や技術以上に、「相手をまるごと受けとめる」という温かく、無垢な関心なのです。
人は誰しも、苦しいときに「治療」よりもまず「理解されたい」「受け入れてほしい」と願います。浪越式指圧の「母ごころ」は、まさにその欲求に応えるあり方です。身体に触れることを通じて、「あなたはここにいていい」「つらさを分かち合いますよ」と静かに伝えるのです。
つまり、「母ごころ」とは浪越式指圧における臨床哲学の真髄を、誰にでもわかるかたちで表現した言葉なのです。それは人間に本来的に備わっている、他者へのやさしさと共感の力を信じる姿勢にほかなりません。そして、そのやさしさを、ただの理想論ではなく、現実の癒しとして体現すること。それこそが浪越式指圧の、何にも代えがたい価値なのです。