私たちの治療室では、指圧を単なる技術や施術として捉えるのではなく、「人と人がつながり、共に癒される道」として大切にしています。その道筋を深く理解するために、私たちは古来より禅の世界で語り継がれる「十牛図」の物語を参考にしました。
十牛図は、人が本質を求める過程を10の段階で描いた禅の教えです。この哲学的な物語と指圧修練のプロセスは、多くの共通点を持っています。一歩ずつ迷いながら進む道のり、技術や心の成熟、そして癒やしを通じてたどり着く究極の境地——そこには、人を癒やすことの奥深さが秘められています。
このページでは、「十牛図」の各段階と指圧の修練を重ね合わせ、指圧という道がどのように人生を豊かにし、社会を平和へと導く可能性を秘めているのかをお伝えします。どうぞ、私たちの想いとともにその物語に触れてください。
第一章 尋牛(じんぎゅう)――指圧の道を求めはじめる
人がはじめて指圧に興味を抱き、その道を志そうとする姿は、十牛図における「尋牛」の境地とよく似ています。牛とは、ここでは「自分自身の本質」や「生命力の源」、さらには「他者との結びつき」を象徴しています。指圧を学ぼうとする者も、まず「自分には何かが足りない」「もっと人を癒やすことができるかもしれない」といった漠然とした思いに駆られ、探求の旅へと足を踏み出します。
しかし、最初から明確な道筋が見えるわけではありません。どこへ進めばいいのか、誰に教えを請えばいいのか、指圧の奥義はどこにあるのか――手探りの状態で外界をさまよい、心をかき乱すような思いに翻弄されながらも、それこそが「尋牛」の大切なプロセスです。自分の内なる声と向き合いながら、一歩ずつ前に進もうとするところから指圧の修練は始まるのです。
第二章 見跡(けんぜき)――指圧の真髄の手がかりを見いだす
十牛図の第二段階である「見跡」は、牛の足跡を見つける場面です。これは「求め続けたものの手がかりを、ようやく発見する」段階を意味します。指圧の道においては、師との出会い、あるいは信頼できる仲間との交流によって、「こうしたアプローチこそが身体と心に有効なのではないか」と確信を得るような小さな気づきが得られるでしょう。
指圧の研鑽を深めたいと思う者にとって、教本や先人の言葉、患者さんの声、そして「痛気持ちいい」と感じる感覚などが“足跡”となります。その足跡を見いだしたとき、探求の旅路はもう後戻りできないほどに明確なものとなり、さらに深く進む意欲がかき立てられるのです。
第三章 見牛(けんぎゅう)――はっきりと指圧の核心に触れる
「見牛」は、足跡をたどり遂に牛の姿をはっきりと目にする瞬間です。指圧を学ぶ者にとっては、「指圧は身体だけでなく、心にも深い影響を与える」という真髄を実感する段階といえます。
たとえば、指圧を行う指先に相手の緊張やこりが伝わり、それをゆっくりとほぐしてゆく過程で、相手が安心感や安らぎを得ていく。さらに、その触れ合いを通じて自分自身の内側にも落ち着きが訪れる。このような“牛の姿”を初めてしっかりと目にしたとき、指圧が単なる技術ではなく、「生き方」や「あり方」そのものであると気づかされます。
第四章 得牛(とくぎゅう)――指圧の実践力を獲得する
牛を手に入れる「得牛」は、指圧の基本的な技術や感覚をしっかりと身につけ、実際に役立てられる段階を示唆します。力の入れ方や圧の方向、指の使い方などの基礎を学び、相手の症状や体質に応じて適切な圧を届けられるようになったとき、人は大きな達成感を得るでしょう。
しかし、この段階はまだ途中です。「牛を捕まえた」といっても、そこには手応えがありながらも不安定さも同居します。指圧の深さはまださらに先にあり、ここをゴールと見誤ると、学びが止まってしまうかもしれません。それでも、得牛は大きな前進であり、指圧師としての自覚と喜びを育む重要な節目となります。
第五章 牧牛(ぼくぎゅう)――自分と指圧の力を馴らしていく
「牧牛」は、捕まえた牛を自分の手で飼いならす過程を表します。得た指圧の技術や理論を、日常の施術やトレーニングを重ねることで、より深く自分のものとして統合していく時期です。
施術を続けていくうちに、患者さん一人ひとりの反応や身体の変化に合わせ、微妙な圧の加減やタイミングを身につけることができます。また、指圧を行うたびに、自分自身が整い、深い呼吸とともに相手との心身の交流が豊かになる。その過程は、まさに「牛を牧する」ように、技術を慣らし、己の心身を高めていく地道な修行の時間なのです。
第六章 騎牛帰家(きぎゅうきか)――指圧の喜びを携えて、日常を生きる
「騎牛帰家」は、牛に乗って我が家へ帰る姿を描きます。苦労して手に入れ、ようやく馴らした牛に身を預け、時には悠々と笛を吹きながらゆったりと帰途につく。その姿は、指圧の修練を長く積み、ある程度の自信と安定感を得た時期と重なります。
施術をするたびに、相手の方の笑顔や安堵した表情にふれ、「指圧をすることがこんなにも人生を豊かにしてくれるのだ」と実感できるようになる。もはや指圧は特別な行為ではなく、自然な日常の一部になっていきます。牛に乗るように、指圧の力を自分の身体と心にしっかりと取り込み、自分の道を穏やかに歩み始めるのです。
第七章 忘牛存人(ぼうぎゅうぞんじん)――技術を超えた人の温かさ
「忘牛存人」は、牛の存在を忘れるほどに、人間(自分自身)の存在が際立ってくる段階です。ここでは、指圧の技術そのものを意識しなくても、自然と“良い圧”が届けられる境地を指します。
施術者の中で、技術や理論が「習慣」や「所作」にまで落とし込まれ、心から相手を思いやる気持ちが自然と身体に現れる。そこではもはや「上手に指圧をしよう」と考えることさえ必要なくなり、あたたかな“人”として相手と向き合える状態が生まれます。まさに「牛を忘れる」とは、修練の末に身についた技術を意識することなく、思いやりの心がスムーズに相手へと伝わるという姿なのです。
第八章 人牛倶忘(じんぎゅうぐぼう)――境界を超えた一体感
「人牛倶忘」は、「人も牛も共に忘れる」状態であり、自分と相手、施術者と被施術者という区別さえも超えた一体感の象徴です。施術者は、指圧をしている自分とされている相手という境界を忘れ、“生命力の相互交流”だけがそこにあるような状態に至ります。
指先が相手の筋肉を感じ、相手の心の緊張をゆったりと受け止める。同時に、自分自身の身体と心も整えられていく。人と人との間にただ“いのち”が流れ込む。ここに至ると、施術者は「やってあげる」「受けている」という感覚すら薄れ、互いに高め合う場そのものが尊く感じられます。
第九章 返本還源(へんぽんかんげん)――原点へ帰り、新たな世界を観る
「返本還源」は、最終的に「本来の自分」や「本来的な真理」へ立ち返ることを指します。しかし、これは単なる初心の回帰ではなく、修行を経て深まった理解をもって原点を見つめ直す行為です。
指圧においては、日々の施術や研鑽のなかで得てきた知識と経験を通じて、「人はみな誰かを癒やす力を持っている」「身体と心は一体であり、共鳴し合っている」という真理を再発見します。同時に、自分自身の存在や生き方がよりシンプルになり、「人を癒やすことは、実は自分を癒やすことと同じだったのだ」という気づきにつながるでしょう。これは、いわば“万物は一つ”という真実への静かな回帰でもあります。
第十章 入鄽垂手(にってんすいしゅ)――世俗に帰り、世界に平和をもたらす
十牛図の最終段階である「入鄽垂手」は、“市場(鄽)に入って手を垂れる”と表現されます。悟りを得た人が日常の社会へ戻り、ありのままの姿で人々に手を差し伸べる姿です。
指圧を極めた施術者が、社会の中に溶け込み、だれかを助けたいと思えば助けの手をそっと差し伸べ、静かに相手を和らげ、慰める。特別なことのように見えて、これは自分自身の自然な行為であり、周囲の人々には安心感や信頼感をもたらします。
そこには世界平和への一つの道筋があるといえるでしょう。指圧によって身体と心がほぐれれば、余裕や思いやりが生まれ、争いよりも共存を選ぶ気持ちが育まれやすくなります。痛みに寄り添い、他者を受けとめようとする指圧の精神は、国境や文化の壁を越えて人々をつなぐ橋渡しとなり得るのです。
まとめにかえて
十牛図を指圧の修練過程と重ね合わせて考えると、人間が本質を求め、技術や知識を鍛錬し、そしてそれを超えた先にある「心の交流」や「真の癒やし」へ到るまでの道のりを描き出すことができます。そこに至るには多くの試行錯誤や迷いがあり、葛藤を乗り越える過程で真の成長がもたらされるのです。
やがて己と他者の境界さえも超えるほどの深い一体感を得て、シンプルな真理に立ち返る。それが「癒やし」の究極の姿であり、その先には、一人ひとりが無理なく、おのずから手を差し伸べ合う平和な世界の可能性が広がっています。
指圧道においては、そうした「人間同士の相互扶助」こそが、ただ痛みを取る以上の大きな意義を持ちます。十牛図が示す世界観と指圧の精神は、人生を豊かに、そして世界を少しずつ平和へ導いていく深遠な光を放ち続けるでしょう。