序論
東洋医学における手の少陰心経の枢要な役割
東洋医学の臓腑理論において、心は「君主の官」と称され、全生命活動を統括する最高位の存在として位置づけられる 。この至高の役割は、西洋医学における心臓の循環ポンプ機能に留まらず、精神、意識、情動といった高次の生命現象を支配する中枢としての機能を含む。この深遠な概念は、古典『黄帝内経』に記された「心は血脈を主る(心主血脈)」および「心は神明を主る(心主神明)」という二つの根幹的な生理作用に集約される 。
「心主血脈」とは、心臓の拍動によって血液を全身の脈管に送り出し、組織器官を滋養する物理的な循環機能を指す 。これは現代生理学の心血管系の機能と直接的に対応する。一方、「心主神明」は、東洋医学における心の独自性と深淵さを示す機能であり、「神(しん)」、すなわち意識、思考、記憶、感情、睡眠といった、現代医学でいうところの大脳および中枢神経系の高次機能を統括する働きを指す 。心は、単なる臓器ではなく、精神と身体を統合する司令塔であり、その状態は人の顔色や眼光、そして言語活動に現れるとされた 。
この心身を統合する「君主」としての役割から、手の少陰心経(以下、心経)は、人体の極めて広範な領域に影響を及ぼす。心経の機能失調は、動悸、胸痛といった循環器系の症状のみならず、不眠、不安、うつ、記憶力低下、さらには意識障害といった、現代社会で急増するストレス関連疾患や精神神経疾患の根源となり得る 。この古典的な心身相関の概念は、近年の医学研究で注目される「脳心相関(Brain-Heart Axis)」、すなわち脳の情動・認知中枢と心血管系が自律神経系を介して密接に連携し、相互に影響を及ぼし合うという考え方と驚くほど一致する 。心経は、この脳心相関に介入するための、最も直接的かつ強力な治療経路であると解釈できる。
古典の叡智と科学的エビデンスの統合という現代的要請
本報告書の目的は、この心経の重要性を深く掘り下げ、その経穴(ツボ)の効能と作用機序を、古典医学の深遠な知見と現代科学の客観的エビデンスの両側面から包括的に解明することにある。鍼灸医学の臨床効果を最大化し、その再現性を高めるためには、もはや古典の記述にのみ依拠するだけでは不十分である。『黄帝内経』、『鍼灸甲乙経』、『霊枢』といった古典籍に記された理論体系は、数千年にわたる臨床経験の集積であり、その価値は計り知れない 。しかし、その作用機序を現代的な言語で説明し、治療効果を客観的に検証することで、鍼灸医学はさらなる発展を遂げることができる。
近年、ランダム化比較試験(RCT)や、機能的磁気共鳴画像法(fMRI)、心拍変動(HRV)解析などの先進的な研究手法により、特定の経穴刺激が中枢神経系、自律神経系、内分泌系に及ぼす具体的な影響が徐々に明らかになりつつある 。特に心経は、その主治が精神神経症状と循環器症状に集中しているため、これらの科学的検証の主要な対象となってきた。本報告書では、これら最先端の科学的研究成果を、古典医学の理論的枠組みの中に位置づけることで、両者の間に橋を架けることを試みる。この統合的アプローチは、臨床における治療効果の向上、患者への説明責任の遂行、そして鍼灸医学の学術的地位の確立に不可欠であると確信する。本報告書は、提供された足の厥陰肝経に関する報告書 と同様の学術的価値と形式を追求するものである。
第一部 手の少陰心経の基礎理論
1.1 経脈の流注(手の少陰心経の走行)
心経の流注、すなわち気血が流れる経路を理解することは、その生理機能と病理、そして各経穴の治療作用を把握するための第一歩である。その経路は、単なる解剖学的な線ではなく、心という「君主」の支配領域を示す機能的な地図そのものである。WHO/WPROの標準経穴部位に基づき、古典の記述を統合すると、その流注は以下の通りである 。
外経路
心経は、心臓から始まり、まず体表に出てくる腋窩の中央、腋窩動脈拍動部にあるHT1(極泉)からその体表の流注を開始する 。そこから上腕の内側後縁(尺側)を下り、肘関節の内側、上腕骨内側上顆の前にあるHT3(少海)に至る。さらに前腕の内側後縁(尺側)を下り、手関節の掌側横紋上で豆状骨の橈側にあるHT7(神門)を通過する。その後、手掌を通り、小指の末節骨橈側の爪甲根部にあるHT9(少衝)に到達し、ここで表裏関係にある手の太陽小腸経へと連なる 。
内経路
心経の真価は、その複雑で広範な内経路にある。『霊枢』経脈篇によれば、心経は「心中に起こり、出て心系に属し、下りて膈を貫き、小腸を絡う」と記されている 。これは、経脈が心臓そのものから起始し、大動脈や肺動脈などの「心系」と総称される大血管群に属し、横隔膜を貫いて下行し、表裏関係にある腑である小腸と連絡することを示している。
さらに重要なのは、心系から分かれて上行する支脈である。この支脈は「咽を挟み、上りて目系に繋がる」。すなわち、食道に沿って上行し、咽頭部を経て、眼球とその周囲の神経・血管組織(目系)に連結するのである。この内経路は、心経の機能的マップとして解釈できる。
- 循環器系への直接作用: 心臓から起始し、心系に属するという経路は、動悸、不整脈、胸痛など、心臓および大血管の疾患に対する心経の直接的な治療効果の根拠となる 。
- 消化器系への作用: 横隔膜を下り小腸を絡う経路は、心と小腸の表裏関係を解剖学的に示し、精神的ストレスが消化機能に影響を及ぼす(例:過敏性腸症候群)際の病理的関連性を説明する 。
- 精神・神経系への作用: 咽頭を経て「目系」に繋がる経路は、心経が脳と密接に関連していることを示唆する。古典における「目系」は、単なる視覚器ではなく、脳に繋がる重要な門戸と考えられていた。この経路は、心経が意識、精神、言語(咽頭との関連)といった高次の脳機能に深く関与する理由を説明する 。心経の経穴刺激が、fMRI研究において大脳辺縁系や前頭前野など、情動や認知を司る広範な脳領域の活動を変化させるという現代科学の知見は、この古典的な機能マップの正しさを裏付けている 。
1.2 心の生理と病理
心経の臨床的意義を理解するためには、中医学における「心」の生理機能と、それが失調した際の病理を深く把握する必要がある。
血脈を主る(心主血脈)
これは心の最も基本的な機能であり、心気の推動作用によって血液を全身の脈管内に運行させ、臓腑・組織・器官を滋養する働きを指す 。心気が旺盛であれば、血脈は満ち、血行はスムーズで、顔色には艶があり、脈拍は力強い。しかし、心気が不足すると(心気虚)、血液を推動する力が弱まり、動悸、息切れ、倦怠感、顔色の蒼白、細弱な脈といった症状が現れる 。さらに病態が進行し、血行が停滞すると「心血瘀阻」となり、刺すような胸痛(狭心症や心筋梗塞に相当)、チアノーゼ(青紫色の顔色や口唇)、結代脈(不整脈)などが生じる 。
神明を主る(心主神明)
これは心の最も重要かつ高次な機能であり、「君主の官」たる所以である。「神明」あるいは単に「神(しん)」とは、精神、意識、思考、記憶、睡眠、感情など、人間の一切の精神活動を包含する概念である 。『素問』霊蘭秘典論には「心者は君主の官なり、神明これより出ず」とあり、心が全生命活動の司令塔であることを示している。
心の機能が正常で、その物質的基盤である心血が充足していれば、精神は安定し、意識は明晰、思考は敏速で、睡眠は安らかである 。しかし、心の機能が失調すると、神明は動揺し、多彩な精神神経症状が現れる。例えば、心血が不足すると(心血虚)、神を養うことができなくなり、不安感、不眠(特に寝付きが悪い)、多夢(夢が多い)、記憶力の低下、驚きやすいといった症状が生じる 。熱邪が心を乱すと(心火上炎)、精神的な興奮、イライラ、躁状態、激しい不眠などが現れる 。
この「神明を主る」機能と「血脈を主る」機能は不可分である。血液は精神活動を支える物質的基盤であり、「心血虚」が精神症状を引き起こすのはこのためである 。現代医学においても、心疾患患者にうつ病や不安障害の合併率が高いことや、慢性的なストレスが心血管疾患のリスクを高めることが知られており、古典的な「心主神明」の概念の臨床的妥当性が示唆される 。
身体各部との関連
- 舌に開竅す(開竅於舌): 「開竅」とは、臓腑の機能が体表の特定の器官に開通していることを意味する。心は舌に開竅し、「舌は心の苗」とも呼ばれる 。舌の形態、色、動き、味覚は心の状態を反映する。例えば、心火が亢進すれば舌は赤く爛れて痛みを伴い、心血瘀阻では舌が暗紫色になる。また、心神が乱れると、ろれつが回らなくなるなどの言語障害が生じることがある 。
- その華は面にある(其華在面): 「華」とは、臓腑の機能の盛衰が外部に現れる光沢や栄えを指す。心は顔面の光沢や色つやとしてその状態を現す 。心血が充足していれば顔色は hồng hàoで艶があるが、心血が不足すれば蒼白でくすんだ色になる 。
- 汗は心の液(汗為心液): 汗と血は同じ源(津液)から作られるため、「汗血同源」と言われる。心は血脈を主るため、汗の生成と排泄も心の機能と関連する 。過度の発汗は心血や心陰を消耗させ、動悸を引き起こすことがある。逆に、心陽が虚すと、体の表面を固摂する力が弱まり、自汗(じっとしていても汗が出る)が見られる 。
1.3 臨床診断における主要な病理パターン(心の弁証論治)
臨床において心経の経穴を効果的に用いるためには、その背景にある病理パターンを正確に弁別する必要がある。主要なパターンは以下の通りである 。
虚証(Deficiency Patterns)
- 心気虚(しんききょ)・心陽虚(しんようきょ): 心の推動機能が低下した状態。動悸(特に労作時)、息切れ、易疲労感、自汗が主症状。心陽虚に進行すると、これらの症状に加え、畏寒(寒がり)、四肢の冷え、胸部の冷痛など「寒」の症状が顕著になる 。現代医学の心機能不全や徐脈性不整脈に相当する病態。
- 心血虚(しんけっきょ): 心の神明を養う物質的基盤である「血」が不足した状態。精神神経症状が主となり、動悸、不眠(入眠困難)、多夢、不安感、健忘(物忘れ)、驚きやすい(易驚)などが特徴。顔色は艶のない蒼白(dull-pale)、舌質は淡白。脈は細・弱 。女性に多く見られ、精神的過労や慢性的な出血などが原因となる。
- 心陰虚(しんいんきょ): 心血虚が進行し、血だけでなく津液(潤い成分)も消耗した状態。心血虚の症状に加え、陰虚内熱(虚熱)による症状、すなわち、五心煩熱(手足の裏と胸のほてり)、寝汗(盗汗)、口や喉の渇き、頬骨部の紅潮(malar flush)が見られる。舌質は紅く、乾燥し、苔は少ない。脈は細・数(速い)。更年期障害や慢性消耗性疾患でよく見られる。
実証(Excess Patterns)
- 心火上炎(しんかじょうえん)/心火亢盛(しんかこうせい): 情動の刺激や過度の辛温なものの摂取などにより、心に実火が生じ、燃え盛る状態。精神的な興奮が主症状で、煩躁(胸が苦しく落ち着かない)、不眠、顔面紅潮、口渇、口内炎や舌炎(特に舌尖部)、血尿などが特徴。舌質は紅、舌尖は特に赤く、脈は数(速く)力強い 。
- 心血瘀阻(しんけつおそ): 様々な原因で心脈の血行が阻害され、瘀血が内停した状態。胸部の刺すような固定性の痛みが特徴で、痛みは肩や左腕内側に放散することがある。胸悶(胸の圧迫感)、動悸を伴う。顔色や口唇、爪は暗紫色を呈し、舌には紫色の斑点(瘀点・瘀斑)が見られる。脈は細・渋または結・代(不整脈)。狭心症や心筋梗塞に相当する重篤な病態。
- 痰火擾心(たんかじょうしん)・痰迷心竅(たんめいしんきょう): 無形の病理産物である「痰」が、心の神明を宿す「心竅(しんきょう)」を塞ぐ病態。精神錯乱が主症状となる。熱と結びついた「痰火」が心を乱すと、狂躁状態、攻撃性、多弁、うわごとなど陽性の精神症状(痰火擾心)を呈する 。寒と結びついた「寒痰」が心を塞ぐと、意識混濁、無言、嗜眠、昏睡など陰性の精神症状(痰迷心竅)を呈する 。統合失調症や躁うつ病、脳血管障害後の意識障害など、重篤な精神・意識障害の病理モデルである。
これらの弁証を通じて、各経穴の特性に基づいた的確な選穴と補瀉手技を施すことが、心経治療の鍵となる。
第二部 手の少陰心経の経穴に関する包括的分析
心経に属する9つの経穴は、それぞれが独自の特性と治療効果を持つ。以下の表は、臨床における迅速な参照を目的として、各経穴の要点をまとめたものである。続く各論では、一つ一つの経穴について、古典的根拠から最新の科学的知見までを詳述する。
表1: 手の少陰心経の経穴(HT1-HT9)概要
WHOコード | 経穴名 (Pinyin / 日本語) | 要穴分類 | WHO標準取穴部位 (要約) | 古典的要約 (主治) | 現代的研究に基づく主な応用 |
HT1 | Jíquán / 極泉 | – | 腋窩の中央、腋窩動脈拍動部 | 心痛、胸痺、肋間神経痛、上肢の痺れ・痛み | 肩関節周囲炎(五十肩)、頸椎症性神経根症、胸郭出口症候群 |
HT2 | Qīnglíng / 青霊 | – | 上腕内側、極泉と少海を結ぶ線上、少海の上3寸 | 頭痛、肩腕痛、目の黄ばみ | 上腕部の局所痛(臨床的意義は限定的) |
HT3 | Shàohǎi / 少海 | 合水穴 | 肘を屈曲し、肘窩横紋の内端と上腕骨内側上顆を結ぶ線の中点 | 心痛、肘・腕の痙攣や痛み、瘰癧(頸部リンパ節腫脹)、精神疾患 | 上肢の痙縮(脳卒中後遺症)、肘関節痛、心火による精神症状、掻痒症 |
HT4 | Língdào / 霊道 | 経金穴 | 前腕掌側、神門の上1.5寸、尺側手根屈筋腱の橈側 | 心痛、声がれ(暴瘖)、肘・腕の痙攣、ヒステリー | 不整脈、動悸、不安、手根管症候群、尺骨神経障害 |
HT5 | Tōnglǐ / 通里 | 絡穴 | 前腕掌側、神門の上1寸、尺側手根屈筋腱の橈側 | 心痛、動悸、舌の強張り、声がれ、頭痛、めまい | 自律神経失調症(HRV改善)、脳卒中後の失語症、不安、動悸 |
HT6 | Yīnxī / 陰郄 | 郄穴 | 前腕掌側、神門の上0.5寸、尺側手根屈筋腱の橈側 | 急性心痛、驚きやすい、盗汗(寝汗)、鼻血、胸痛 | 狭心症(急性疼痛)、不整脈、盗汗、不安発作 |
HT7 | Shénmén / 神門 | 兪土穴、原穴 | 手関節掌側横紋上、豆状骨の近位、尺側手根屈筋腱の橈側縁 | 心痛、煩躁、不眠、健忘、痴呆、ヒステリー、手の熱感 | 不眠症、不安障害、うつ病、認知機能障害、依存症、各種疼痛 |
HT8 | Shàofǔ / 少府 | 滎火穴 | 手掌、第4・5中手骨間、手を握った際に小指の頭が当たる部 | 心痛、動悸、胸中の煩悶、陰部掻痒、手の拘縮 | 心火による不眠・不安、口内炎、手掌多汗症、認知機能改善 |
HT9 | Shàochōng / 少衝 | 井木穴 | 小指橈側、爪甲根部、爪甲の角から1分(約2mm) | 心痛、動悸、胸脇満、卒倒、高熱、意識障害、狂気 | 救急(失神、脳卒中急性期)、高熱、重度の不安発作、精神錯乱 |
2.1 HT1 Jíquán (極泉) – Highest Spring
- 取穴部位: 腋窩の中央、腋窩動脈が明らかに拍動する部位に取る 。
- 古典的基礎: HT1 極泉は、心経の起始点であり、経気が最も高く深い泉のように湧き出る場所を意味する 。古典籍、特に『鍼灸甲乙経』では、胸部に邪気が満ちて呼吸が苦しい症状(胸脇支満)、心痛、腕が挙がらない、上肢の冷えや痺れなどを主治とすると記されている 。経脈の始点として、胸部から上肢への気血の流れを開通させる重要な役割を担う。
- 現代科学的エビデンスと作用機序: 極泉は、腋窩動脈、腋窩静脈、そして腕神経叢といった重要な神経血管束の直上に位置する 。この解剖学的特徴から、本穴への刺激は上肢の循環と神経機能に直接的な影響を及ぼす。臨床研究において、極泉への鍼治療は、神経根型頸椎症による上肢の知覚異常に対して高い有効性を示すことが報告されている。特に、提挿法(鍼を上下に動かす手技)を用いた場合、その有効率は91.9%に達し、単純な捻転法や他の経穴を用いた治療よりも有意に優れていた 。この効果は、鍼刺激が腕神経叢を介して脊髄レベルでの神経伝達を調節し、異常な求心性信号を遮断することで発揮されると考えられる。また、肩関節周囲炎(五十肩)や胸郭出口症候群の治療プロトコルにも組み込まれ、局所の血流改善と筋緊張緩和を通じて疼痛と可動域制限を改善する 。
- 臨床応用と配穴
- 主要な臨床応用: 肩・腕の疼痛、痺れ、運動障害に対する要穴。
- 頸椎症性神経根症・胸郭出口症候群: 上肢への放散痛や痺れに対し、極泉に提挿法を施すことで、神経の絞扼を緩和し症状を改善する。
- 肩関節周囲炎: 肩関節の可動域制限、特に外転・挙上困難な場合、局所の阿是穴(圧痛点)やLI15(肩髃)、TE14(肩髎)と共に用いる。
- 心臓疾患: 古典的な心痛への応用として、胸部の気血を開通させるPC6(内関)やCV17(膻中)と組み合わせて用いられることがある 。
2.2 HT2 Qīnglíng (青霊) – Green Spirit
- 取穴部位: 上腕内側、HT3(少海)からHT1(極泉)に向かい上3寸、上腕二頭筋の内側縁に取る 。
- 古典的基礎: HT2 青霊は、主に局所である肩や腕の痛み、頭痛を治療するために用いられた 。その名称の由来は、「青」が肝の色であり、痛みに伴う青あざを指し、「霊」がその優れた効果を意味することから、痛証に効果があることを示唆している 。しかし、『鍼灸甲乙経』などの主要な古典における記載は少なく、臨床的重要性は他の要穴に比べて低い 。一部の文献では上腕動脈に近いため禁鍼穴とされている 。
- 現代科学的エビデンスと作用機序: 青霊に特化した質の高い現代的研究は非常に乏しい。その作用は、上腕動脈、尺骨神経、正中神経に近接していることから、これらの神経血管への局所的な刺激を介したものと推測されるが、具体的なメカニズムは不明である。臨床応用は限定的であり、主に上腕部の局所的な筋痛や神経痛に対して、阿是穴として用いられる程度である。
- 臨床応用と配穴
- 主要な臨床応用: 上腕内側の局所的な痛み。
- 臨床的には使用頻度が低く、他のより効果的な経穴(例:極泉、少海)が優先されることが多い。
2.3 HT3 Shàohǎi (少海) – Lesser Sea
- 取穴部位: 肘を深く屈曲し、肘窩横紋の内端と上腕骨内側上顆を結ぶ線の中点に取る 。
- 古典的基礎: HT3 少海は、心経の合水穴(ごうすいけつ)である 。合穴は経気が深く集まり、海に注ぐように合流する場所であり、臓腑の慢性的な病を治す作用がある。「水」の性質を持つため、五行の相生関係(水生木、ここでは水が火を制する相克関係の応用)に基づき、過剰な「心火」を鎮める(清熱瀉火)重要な役割を担う。その名称「少海」は、少陰心経の気血が「海」のように深く集まる場所を意味する 。古典的には、心痛、精神疾患(癲狂)、頭痛、めまい、そして局所の肘や腕の痛み、痙攣に用いられた 。
- 現代科学的エビデンスと作用機序: 少海は、現代の臨床研究において、その多岐にわたる効果が検証されている。
- 脳卒中後遺症: 脳卒中後の上肢痙縮に対する電気鍼(EA)治療のRCTにおいて、少海は主要な治療点として用いられ、肘関節の痙縮を有意に減少させることが示された 。この作用機序は、尺骨神経および正中神経への刺激が、脊髄の相反神経支配を介して、過剰に興奮した屈筋群の緊張を抑制し、伸筋群とのバランスを再調整することによるものと考えられる。
- 掻痒症(かゆみ): アトピー性皮膚炎や蕁麻疹など、熱が関与する掻痒症の治療プロトコルにおいて、少海はLI11(曲池)などと共に、清熱作用を期待して頻繁に用いられる 。
- 局所循環改善: 温灸を用いた研究では、少海への刺激が局所の皮膚血流量を有意に増加させることがLDF(レーザードップラー血流計)で確認されており、局所の循環改善作用が客観的に示されている 。
- 電気生理学的特性: 健常者を対象とした研究では、鍼刺激によって少海の電気インピーダンスが有意に低下することが示された。これは、鍼刺激が局所のイオンチャネルの透過性を高め、生体電気信号の伝達を促進することを示唆しており、経穴の特異性に関する一つの物理的根拠となる 。
- 臨床応用と配穴
- 主要な臨床応用: 心火を清し、精神を安定させる。上肢の痙縮や痛みを緩和する。
- 心火による不眠・不安: 心火が亢進し、煩躁や不眠を呈する場合、心火を直接清するHT8(少府)と組み合わせて用いる。
- 脳卒中後の上肢麻痺・痙縮: 運動機能を回復させるため、LI11(曲池)、LI10(手三里)、TE5(外関)などと共に電気鍼治療を行う。
- 肘関節痛(ゴルフ肘など): 局所の阿是穴として、LI11(曲池)やLU5(尺沢)と共に用いる。
- 皮膚の掻痒症: 熱証を伴う場合、風熱を除くLI11(曲池)や血熱を冷ますSP10(血海)と配穴する。
2.4 HT4 Língdào (霊道) – Spirit Path
- 取穴部位: 前腕掌側、HT7(神門)の上1.5寸、尺側手根屈筋腱の橈側に取る 。
- 古典的基礎: HT4 霊道は、心経の経金穴(けいきんけつ)である 。経穴は経気が盛んに流れる通路であり、「喘咳寒熱を主る」とされる。五行では「金」に属し、心の「火」とは相克関係にあるため、過剰な心火を抑制する作用を持つ。その名称「霊道」は、「霊」すなわち精神(神)が通る「道」を意味し、心の神志機能に対する強い影響力を示唆している 。古典的には、突然声が出なくなる(暴瘖)、心痛、精神不安(ヒステリー)、不整脈などに用いられてきた 。
- 現代科学的エビデンスと作用機序: 霊道に特化した研究は限られているが、その作用は解剖学的特徴と古典理論から推測される。本穴は尺骨神経と尺骨動脈の直上に位置しており 、鍼刺激はこれらの神経血管束を直接変調させる。尺骨神経を介した求心性信号は、脊髄および脳幹の自律神経中枢に達し、心拍数やリズムを調節する可能性がある。これが、古典的に言われる不整脈や動悸に対する効果の神経生理学的基盤と考えられる。また、「霊道」という名が示す通り、精神活動への関与が示唆されるが、これを裏付ける質の高い神経科学的研究は今後の課題である。
- 臨床応用と配穴
- 主要な臨床応用: 心のリズムを整え、神を安んじる。
- 不整脈・動悸: 心拍を穏やかにするため、PC6(内関)と組み合わせて用いる。これは胸部の気血を開き、心臓への負担を軽減する古典的な配穴である。
- 不安・パニック障害: 精神を安定させるHT7(神門)と共に用い、心の機能を総合的に調整する。
- 尺骨神経麻痺・手根管症候群: 局所の神経機能を回復させるため、HT3(少海)やSI5(陽谷)などと共に用いる 。
2.5 HT5 Tōnglǐ (通里) – Connecting Li
- 取穴部位: 前腕掌側、HT7(神門)の上1寸、尺側手根屈筋腱の橈側に取る 。
- 古典的基礎: HT5 通里は、心経の絡穴(らくけつ)である 。絡穴は、ここから表裏関係にある手の太陽小腸経へと連絡する支脈(絡脈)が分岐する場所であり、表裏二経の病を同時に治療する作用を持つ。その名称「通里」は、心(表)と小腸(裏)の二経を「通じ」させることを意味する 。古典的には、絡穴の病証として、気が実していれば胸や横隔膜が痞え、虚していれば話せなくなるとされ、特に舌が強張って話せない症状や突然の声がれ(暴瘖)の特効穴として知られる。また、心痛や動悸にも用いられる 。
- 現代科学的エビデンスと作用機序: 通里は、その古典的な効能が現代科学によって次々と裏付けられている重要な経穴である。
- 自律神経系の調節: 脳卒中後の患者を対象とした遠隔鍼治療研究(オーストリアと中国間)において、通里への鍼刺激が、安静時心拍数を変えることなく、心拍変動(HRV)の総パワー(Total Power)を有意に増加させることが示された 。HRVの増加は、自律神経系の活動、特に副交感神経機能の向上と関連し、心臓の適応能力や回復力の改善を意味する。これは、通里が自律神経系のバランスを強力に調整する能力を持つことを客観的に示すものである。
- 言語機能への作用: 失語症(aphasia)の治療という古典的効能は、fMRI研究によってその神経基盤が解明されつつある。健常者を対象とした研究で、右側の通里に鍼刺激を行うと、左半球のブローカ野やウェルニッケ野を含む、両側の言語関連領域が広範囲に活性化されることが確認された 。これは、通里への刺激が言語機能を司る脳のネットワークを直接的に変調させることを示しており、脳卒中後の失語症リハビリテーションにおける鍼治療の有効性の理論的根拠となる。
- 嚥下機能への作用: 脳卒中後の嚥下障害に対しても、通里は有効な治療点として研究されている。電気鍼を用いた研究では、通里とGB20(風池)を組み合わせた刺激が、単独の刺激よりも嚥下関連の皮質領域(一次運動野など)をより強力に活性化させることが示されている 。
- 臨床応用と配穴
- 主要な臨床応用: 自律神経の調整、言語・嚥下機能の改善、精神安定。
- 脳卒中後遺症(失語症、嚥下障害): 言語中枢を活性化するため、右側の通里を主穴とし、頭部のGV20(百会)やGV24(神庭)と組み合わせる。
- 不安、動悸、不整脈: 自律神経を安定させるため、HT7(神門)およびPC6(内関)と組み合わせる。この三点は、心・神志疾患に対する黄金の組み合わせの一つである。
- 舌の強張り、口内炎: 心経の熱を清し、経絡を通じさせるため、HT8(少府)と組み合わせて用いる。
2.6 HT6 Yīnxī (陰郄) – Yin Cleft
- 取穴部位: 前腕掌側、HT7(神門)の上0.5寸、尺側手根屈筋腱の橈側に取る 。
- 古典的基礎: HT6 陰郄は、心経の郄穴(げきけつ)である 。郄穴は、各経脈の気血が深く集まる隙間とされ、急性期の疼痛性疾患や出血性疾患に優れた効果を発揮する。その名称「陰郄」は、「陰経」である心経の気血が集まる「郄(隙間)」を意味する 。この特性から、陰郄は古典的に、突発的な胸痛や心痛(急性心痛)、驚きやすい(驚悸)、そして陰虚による消耗性の出血である盗汗(寝汗)や鼻血を止める要穴として用いられてきた 。
- 現代科学的エビデンスと作用機序: 陰郄の古典的な主治である「急性心痛」は、現代の臨床研究において、狭心症(angina pectoris)に対する有効性として強力に支持されている。
- 狭心症治療: 複数のRCTおよびシステマティックレビュー、ネットワークメタアナリシスにおいて、陰郄は狭心症治療のための主要な経穴として一貫して採用されている 。鍼治療は、標準的な抗狭心症薬との併用で、狭心症発作の頻度と強度を有意に減少させ、生活の質(QOL)を改善することが示されている 。
- 作用機序: 陰郄への鍼刺激による鎮痛作用の機序は複合的である。①神経調節: 尺骨神経への刺激が脊髄後角に入り、心臓からの痛覚信号伝達をゲートコントロール理論によって抑制する。②血管作動性物質の調節: 鍼刺激が、血管拡張作用のある一酸化窒素(NO)の産生を促進し、血管収縮作用のあるエンドセリン(ET)を減少させることで、冠動脈の血流を改善する可能性がある 。③ 自律神経系の調節: 交感神経の過緊張を緩和し、副交感神経活動を優位にすることで、心筋の酸素消費量を減少させ、虚血を軽減する。④中枢性鎮痛: 脳内の内因性オピオイド(エンドルフィンなど)の放出を促し、痛みの閾値を上昇させる。
- 臨床応用と配穴
- 主要な臨床応用: 狭心症発作時の急性疼痛緩和、および盗汗(寝汗)の治療。
- 狭心症: 急性発作時には、陰郄とPC6(内関)の組み合わせが第一選択となる。これは、心臓を支配する二つの陰経(心経と心包経)に同時に作用し、強力に胸部の気滞血瘀を解消するためである。背部のBL15(心兪)と組み合わせる「兪郄配穴」も効果的である。
- 盗汗(寝汗): 心陰虚による寝汗に対し、陰郄は消耗する陰液の漏出を止める作用がある。腎陰を補うKI7(復溜)と組み合わせることで、標本(症状と根本原因)を同時に治療する。
- 不安発作: 突発的な動悸や胸苦しさを伴うパニック発作に対し、HT7(神門)と共に用いて神を鎮め、胸部の気機を暢達させる。
2.7 HT7 Shénmén (神門) – Spirit Gate
- 取穴部位: 手関節掌側横紋上、豆状骨の近位(橈側)の陥凹部、尺側手根屈筋腱の橈側縁に取る 。
- 古典的基礎: HT7 神門は、心経の兪土穴(ゆどけつ)であり、かつ原穴(げんけつ)でもある 。原穴は、臓腑の原気(根本的な生命エネルギー)が留まる場所であり、その臓腑の虚実を診断し、根本から治療するための最も重要な経穴である。その名称「神門」は、心の蔵する「神(しん)」が出入りする「門」を意味し、本穴が精神・意識・情動を司る神明を治療するための最重要拠点であることを明確に示している 。古典医学のあらゆる文献において、神門は不眠、健忘、動悸、不安、狂気、痴呆など、あらゆる心神の失調に対する第一選択穴として挙げられている 。
- 現代科学的エビデンスと作用機序: 神門は、鍼灸研究において最も科学的検証が進んでいる経穴の一つであり、その効果は神経科学の領域で広く確認されている。
- 不眠症: 複数のRCTおよびシステマティックレビューが、神門への鍼治療(特に電気鍼)が不眠症患者の睡眠の質を有意に改善することを示している 。fMRIを用いた研究では、睡眠剥奪によって引き起こされた脳の機能的結合(functional connectivity)の異常が、神門への鍼刺激によって正常化へと向かうことが示された。具体的には、注意ネットワークとデフォルトモードネットワーク間の異常な結合が是正され、脳が安静状態へと移行しやすくなることが示唆されている 。
- 不安・うつ病: 神門とSP6(三陰交)を組み合わせた電気鍼治療は、不眠に伴う不安および抑うつ症状を有意に改善することがRCTで確認されている。その作用機序として、血清中のノルエピネフリン(交感神経系の興奮性神経伝達物質)のレベルを低下させることが示されており、自律神経系の過緊張を緩和することで抗不安・抗うつ効果を発揮すると考えられる 。
- 認知機能: 睡眠剥奪ラットを用いた動物実験では、神門への鍼治療が、迷路試験で評価される学習・記憶能力の低下を有意に改善し、脳波(EEG)を正常化(δ波の増加、β波の減少)させることが示された 。これは、神門が認知機能と覚醒・睡眠サイクルの調節に関与することを示唆する。
- 臨床応用と配穴
- 主要な臨床応用: あらゆる心神不安の病態(不眠、不安、うつ、焦燥感、記憶力低下)に対する中心的治療穴。
- 不眠症: 神門は治療の核となる。心血虚が背景にある場合は、血を補うSP6(三陰交)とBL15(心兪)を配穴する。心火が強い場合は、火を清するHT8(少府)を加える。精神安定の特効穴である安眠(奇穴)との併用も極めて効果的である。
- 不安障害・パニック障害: 神門で神を鎮め、PC6(内関)で胸の気機を開き、動悸を鎮める。この二穴の組み合わせは、精神疾患治療の基本処方である。
- 認知症・健忘: 脳を滋養し、神を養うため、GV20(百会)や四神聡(奇穴)など頭部の経穴と組み合わせる。
- 各種疼痛: 神門は精神を安定させることで痛みの閾値を上げ、疼痛緩和に寄与する。特にストレスが関与する慢性疼痛に有効。
2.8 HT8 Shàofǔ (少府) – Lesser Palace
- 取穴部位: 手掌部、第4・第5中手骨の間。軽く拳を握った際に、小指の先端が当たる部位に取る 。
- 古典的基礎: HT8 少府は、心経の滎火穴(えいかけつ)である 。滎穴は「身熱を主る」という原則の通り、熱病を治す作用がある。少府は「火経」に属する「火穴」であるため、五行の性質が重なり、心経の経穴の中で最も強力に心火を清する(瀉す)作用を持つ。その名称「少府」は、少陰心経の気が集まる「府(役所、集積所)」を意味する 。古典的には、心火亢進による胸中の煩悶、動悸、手のひらの熱感、陰部掻痒、口内炎などに用いられた 。
- 現代科学的エビデンスと作用機序: 少府の清熱・安神作用は、現代の研究によってその神経生物学的基盤が探求されている。
- 抗うつ・抗不安作用: PTSD(心的外傷後ストレス障害)モデルラットを用いた研究では、少府への鍼刺激が、うつ様行動および不安様行動を有意に改善することが示された。その作用機序として、海馬におけるmTORシグナル伝達経路を介したタンパク質合成を調節し、シナプス可塑性(PSD95, Syn1など)を増強することが示唆されている 。これは、少府が脳の神経可塑性を介して情動を調節する可能性を示すものである。
- 認知機能改善: 認知障害モデルラットを用いた研究では、少府とLR2(行間)を組み合わせた鍼治療が、空間学習・記憶能力を有意に改善した。この効果は、脳内のアセチルコリンエステラーゼ活性を抑制し、コリンアセチルトランスフェラーゼ活性を高めることで、コリン作動性神経機能を増強すること、さらに脳由来神経栄養因子(BDNF)や抗酸化酵素(GPx, SOD)の発現を増加させることと関連していた 。
- 自律神経系への影響: 健常者を対象としたEEG(脳波)およびHRV(心拍変動)の研究では、少府への電気鍼がα波を減少させ、交感神経活動を抑制し副交感神経活動を亢進させる傾向が示された 。これは、少府が自律神経系を介して鎮静・リラックス効果をもたらすことを示唆する。
- 臨床応用と配穴
- 主要な臨床応用: 過剰な心火に起因する精神神経症状および身体症状の鎮静。
- 心火上炎による不眠・躁状態: 心火を強力に清するため、少府を主穴とし、神を鎮めるHT7(神門)を配穴する。さらに全身の熱を清するため、LI4(合谷)やLI11(曲池)を加える。
- 口内炎・舌炎: 心火が上炎して口舌に生じた炎症に対し、局所の治療として、また遠隔治療点として用いる。
- 手掌多汗症・手掌の熱感: 心の熱が手のひらに集中した症状に対し、局所的な治療点として有効。
2.9 HT9 Shàochōng (少衝) – Lesser Rushing
- 取穴部位: 小指の橈側、爪甲根部の角から後方1分(約2mm)の部位に取る 。
- 古典的基礎: HT9 少衝は、心経の井木穴(せいもくけつ)である 。井穴は経気の湧き出る源であり、「心下満を治す」および「神を醒ます(醒神)」という二大作用を持つ。特に、意識を回復させる「開竅醒神(かいきょうせいしん)」作用は井穴に共通する重要な機能である。少衝は心経の終点であり、経気が最も浅い表層に現れる場所であるため、心経の急性の病態、特に心火の暴走や気の逆上に対して、迅速かつ強力な調整作用を発揮する。その名称「少衝」は、少陰の気がここから浅く「衝き」出る様を表している 。古典的には、卒倒、意識不明、高熱、狂気など、救急疾患の要穴として、刺絡(少量の瀉血)が頻繁に用いられた 。
- 現代科学的エビデンスと作用機序: 少衝の古典的な救急穴としての役割は、現代の神経科学的研究によってその妥当性が支持されている。
- 意識障害の改善: 12の井穴(少衝を含む)への鍼刺激は、古代から昏睡状態の患者の意識を回復させるために用いられてきた。外傷性脳損傷(TBI)モデルラットを用いた研究では、12井穴への鍼刺激が昏睡期間を短縮し、神経学的予後を改善することが示されている 。この作用機序は、指先という末梢神経終末が極めて高密度に存在する部位への強力な侵害刺激が、Aδ線維およびC線維を介して巨大な求心性信号を発生させ、脳幹網様体賦活系や視床、大脳皮質といった覚醒に関わる中枢神経回路を強力に賦活化することによるものと考えられる 。
- 自律神経系および脳ネットワークへの影響: fMRI研究では、井穴を含む末梢への鍼刺激が、強い皮膚コンダクタンス反応(SCR、交感神経活動の指標)を引き起こし、これと相関して島皮質(内受容感覚や情動の中枢)の活動を増大させることが示されている 。また、デフォルトモードネットワーク(DMN)の活動を抑制し、心拍数の変動を引き起こすことも確認されている。これは、井穴刺激が単なる局所的な反応ではなく、中枢の情動・覚醒ネットワークと自律神経系を瞬時に変調させる強力なトリガーとして機能することを示している。
- 臨床応用と配穴
- 主要な臨床応用: 意識障害、高熱、精神錯乱といった救急・急性疾患に対する第一選択穴。
- 失神・脳卒中急性期・昏睡: 意識を回復させるため、少衝を刺絡(三稜鍼などで刺して数滴の血を絞り出す)する。多くの場合、他の11の井穴(十二井穴)と共に用いられる。
- 高熱・熱性けいれん: 熱邪を急速に体外へ排出(清熱瀉火)するため、刺絡を行う。大椎(GV14)や曲池(LI11)からの瀉血と併用することもある。
- 重度の不安発作・パニック障害: 過剰に興奮した神経系を「リセット」する目的で、強い刺激(やや深めの刺鍼や軽い刺絡)を与えることがある。HT7(神門)やPC6(内関)と組み合わせて精神を安定させる。